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東京高等裁判所 昭和62年(う)603号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役二年六月に処する。

原審における未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入する。

理由

一控訴趣意中事実誤認の論旨について

所論は、要するに、被告人にはAに対する殺意がなく、同人を脅すつもりで振り下ろした牛刀に、これを払いのけようとした同人の左腕が当たつて傷害を負わせたに過ぎないから、その殺意を肯定して殺人未遂罪の成立を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。

しかし、原判決の掲げる各証拠によると、被告人は、暴力団関係者であることを理由に、Aからその経営する飲食店への出入りを断られたため、同行者の手前メンツをつぶされたとして憤慨するとともに、その後、この件で同人と話し合おうと何度か電話しても、同人から相手にされなかつたこともあつて、いら立ちの念をも強めていたこと、そして本件当夜、被告人は、自宅で飲酒を重ねているうちに、これまでのAとのいきさつを思い出して、むしように腹立たしくなり、酒勢も手伝つて、同人に対する憤激の情を押さえることができず、自宅の台所から牛刀を持ち出し、自己の左手首辺りを数回切りつけて、気持ちを引き締めたうえ、前記飲食店に赴き、同人を表の路上に連れ出して、「この野郎、殺してやる。」などと言いながら、牛刀を右手に振りかざし、更に、身の危険を感じて逃げまわる同人を執ように追い掛けて、路上に転倒し起き上がろうとしていた同人の左側頭部付近を目掛けて、牛刀を振り下ろしたこと、なお右牛刀は、その材質が鋼で、全長が約四三・二センチメートル、刃渡りが約二九・三センチメートルという相当に長大なものであるうえに、かなりの重量もあり(なお、その刃こぼれは鑑定によるものであることが明らかである。)、日ごろは鶏肉等を骨ごと切るのに使用されていたものであることなどの事実が明らかであつて、これらの事実を総合すると、被告人にAに対する殺意のあつたことをうかがわせるに十分である。

加えて、被告人も捜査段階においては、Aをぶつた切つて殺してやろうとの気持ちで牛刀を持ち出したうえ、犯行現場においては、同人をめつた切りにしてやるつもりで、その牛刀を振り下ろした旨明確に述べ、終始その殺意を認める供述をしていたものであつて、この供述は、右認定の事実関係に徴しても、信用性が高いといわねばならない。

これに反し、被告人は原当審公判廷においては、右の殺意を否定し、単にAを脅すつもりであつたなどと述べて、所論に添う供述をしているが、関係証拠に照らして到底採用し得るものではなく、所論にかんがみ記録を精査し、当審における事実取調べの結果を参酌して検討してみても、被告人が自宅の台所から牛刀を持ち出すに至つた時点で、後藤に対する確定的な殺意が生じたと認定した原判決に、何らの事実の誤認はない。論旨は理由がない。

二職権調査及び破棄自判について

職権をもつて、原判決を調査するに、原判決が、その罪となるべき事実において、被告人は殺意をもつて、前記牛刀でAの左側頭部付近を切りつけたが、とつさに同人がこれを左腕で防ぐなどしたため、同人に全治約二週間の左前腕切傷を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかつた旨認定し、かつ、その法令の適用において、殺人未遂に関する法条を適用し、所定刑中有期懲役刑を選択しただけで、中止未遂及び法律上の減軽に関する刑法四三条但書及び六八条三号を適用していないことに徴すると、原判決は、被告人のAに対する右の一撃によつて殺人の実行行為は終了したが、同人の防御などの障害により、殺害の結果が発生しなかつたとして、本件がいわゆる実行未遂で、しかも障害未遂に当たる事案であると認定していることが明らかである。

しかし、前記の被告人の捜査段階における供述にもあるように、被告人は、Aを右牛刀でぶつた切り、あるいはめつた切りにして殺害する意図を有していたものであつて、最初の一撃で殺害の目的が達せられなかつた場合には、その目的を完遂するため、更に、二撃、三撃というふうに追撃に及ぶ意図が被告人にあつたことが明らかであるから、原判示のように、被告人が同牛刀でAに一撃を加えたものの、その殺害に奏功しなかつたという段階では、いまだ殺人の実行行為は終了しておらず、従つて、本件はいわゆる着手未遂に該当する事案であるといわねばならない。

そして、いわゆる着手未遂の事実にあつては、犯人がそれ以上の実行行為をせずに犯行を中止し、かつ、その中止が犯人の任意に出たと認められる場合には、中止未遂が成立することになるので、この観点から、原判決の掲げる証拠に当審における被告人質問の結果なども参酌して、本件を考察すると、原判示のように、被告人は確定的殺意のもとに、Aの左側頭部付近を目掛けて、右牛刀で一撃し、これを左腕で防いだ同人に左前腕切傷の傷害を負わせたが、その直後に、同人から両腰付近に抱きつくように取りすがられて、「勘弁して下さい。私が悪かつた。命だけは助けて下さい。」などと何度も哀願されたため、かわいそうとのれんびんの情を催して、同牛刀で更に二撃、三撃というふうに追撃に及んで、殺害の目的を遂げることも決して困難ではなかつたのに、そのような行為には出ずに犯行を中止したうえ、自らも本件の所為について同人に謝罪し、受傷した同人に治療を受けさせるため、通り掛かりのタクシーを呼び止めて、同人を病院に運んだことなどの事実が明らかである。

右によると、たしかに、Aが被告人の一撃を防御したうえ、被告人に取りすがつて謝罪し、助命を哀願したことが、被告人が殺人の実行行為を中止した契機にはなつているけれども、一般的にみて、そのような契機があつたからといつて、被告人のように強固な確定的殺意を有する犯人が、その実行行為を中止するものとは必ずしもいえず、殺害行為を更に継続するのがむしろ通例であるとも考えられる。

ところが、被告人は前記のように、Aの哀願にれんびんの情を催して、あえて殺人の実行行為を中止したものであり、加えて、被告人が前記のように、自らもAに謝罪して、同人を病院に運び込んだ行為には、本件所為に対する被告人の反省、後悔の念も作用していたことが看取されるのである。

以上によると、本件殺人が未遂に終つたのは、被告人が任意に、すなわち自己の意思によつて、その実行行為をやめたことによるものであるから、右の未遂は、中止未遂に当たるといわねばならない。

そうすると、本件が中止未遂に当たることを認めなかつた原判決には、未遂の事由について事実を誤認し、ひいて中止未遂に関する前記の各法条を適用しなかつた違法があることに帰し、これらのかしは判決に影響を及ぼすことが明らかである。

よつて、量刑不当の論旨についての判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条、三八〇条によつて原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従い、当裁判所において更に判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、暴力団甲組の構成員であるところ、昭和六一年九月一一日夜、肩書住居の自宅において飲酒中、東京都墨田区江東橋○丁目○○番○号の××ビル二階でミュージックパブ「△△」を経営するA(昭和二九年一月一日生)から、かつて暴力団関係者であるとの理由で店への出入りを断られた一件を思い起こし、同行者の手前メンツをつぶされる思いをさせられたことや、その後この件で再三同人に電話しても同人から無視されたことなどを、かれこれ考えているうちに、次第に同人に対する憤激の念が高まり、ついに翌一二日午前三時ころ、同人を殺害しようと決意したうえ、自宅の台所から刃渡り約二九・三センチメトルの牛刀一丁(当庁昭和六二年押第二〇七号の1)を持ち出して、右「△△」に赴き、同日午前三時三〇分ころ、同人を右××ビル前路上に連れ出して、「この野郎、殺してやる。」などと怒号しながら右牛刀を振り上げ、身の危険を感じて逃げ出した同人を追い掛けて、同区江東橋○丁目○○番○号付近の路上に至つた際、転倒して起き上がろうとしていた同人の左側頭部付近を目掛け、右手に持つた同牛刀を振り下ろして切りつけたが、とつさにこれを左腕で防いだ同人から、両腰付近に抱きつくように取りすがられ、「勘弁して下さい。私が悪かつた。命だけは助けて下さい。」などと哀願され、れんびんの情を催すとともに、後悔の念も加わつて、自らの意思により犯行を中止したため、同人に全治約二週間の左前腕切傷を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかつたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二〇三条、一九九条に該当するので、所定刑中有期懲役刑を選択し、右は中止未遂であるから、同法四三条但書、六八条三号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で、量刑を検討するに、本件犯行は、その動機において酌量の余地に乏しく、またその態様も、極めて危険、悪質であつて、当時の被告人の生活態度なども考え併せると、その刑事責任は重いといわねばならないが、他方において、本件が中止未遂に終つていること、被告人に懲役刑の前科がないこと、被告人が被害者に示談金を支払つていることなどの被告人に有利な事情もあるので、これらの点をも考慮して、被告人を懲役二年六月に処し、原審における未決勾留日数の算入につき同法二一条、原当審における訴訟費用につき刑訴法一八一条一項但書をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官坂本武志 裁判官田村承三 裁判官本郷 元)

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